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第12章「分業とマニュファクチュア」第5節「マニュファクチュアの資本主義的性格」の学習会

 7月26日、第12章「分業とマニュファクチュア」の第5節「マニュファクチュアの資本主義的性格」を学習しました。
 
 その資本主義的性格とは何かについて、第1に、資本規模(最小規模)が増大するということ、それがマニュファクチュアの技術的性格から生じる1つの法則となるということ、第2に、協業でも見たように労働の社会的生産力は資本の生産力として現われるということ、第3に、マニュファクチュア労働者は資本のもとで等級的に編成され従属化され、部分労働に適応したものに奇形化され、ますます作業場の付属物になるということ、第4に、個々の労働者がもっていた精神的な諸能力が奪われ、この諸能力は資本の所有となる(精神的労働と肉体的労働の分離が生じる)ということ、そして第5に、マニュファクチュアは労働の生産力を発展させるが、それを労働者の犠牲において高めるための、すなわち相対的剰余価値を高めるための特殊な一方法として現われるということ、等々を検討しました。

 後半部分では、マニュファクチュアの歴史的限界について検討しました。マニュファクチュアは、人間をその諸器官とする一生産機構であり、まだ労働者そのものから独立する客観的な運動機構が確立されるにいたっていないので、資本家はたえず労働者の不柔順と戦わねばならなかったこと、労働者に対する資本家の支配体制はまだまだ不十分であったこと、マニュファクチュアは都市の手工業と農村の家内工業という広汎な基礎のうえにそびえ立っているにすぎず、社会的生産をその全範囲にわたってとらえることも、根底から変革することもできなかったということ、また、マニュファクチュアの依然として手工業的な熟練に依存するという狭い技術的基礎は、増大する生産要求にこたえることができなくなるという矛盾を抱えるものであったということ、しかしこのような矛盾の中からマニュファクチュア自身によってその狭い技術的基礎を克服するような手段、すなわち機械が作り出されることになったこと、等々を確認しました。
 機械について、次回以降見ていきます。次回8月9日は、第13章「機械設備と大工業」の第1節「機械設備の発展」と第2節「生産物への機械設備の価値移転」について検討する予定です。

(追加)前半部分で、次のような質問がありました。第4章で、貨幣が資本に転化するためには、人格的に自由な労働者と生産手段・生活諸手段からも自由な労働者という「二重の意味で自由な労働者」という2つの条件がいわれたが、マニュファクチュア的分業のもとで労働者が不具化・奇形化し、資本の「付属物」になるということは、2つの条件のうちの「人格的な自由」が消失することを意味するのか、というものでした。
 だが、2つの条件は2つが相俟って、労働力が商品として市場に登場するための本質的条件です。「人格的な自由」ということが前提条件になるのは流通の場面、商品交換の場面においてです。そこにおいて、「人格的な自由」は、資本家に剰余価値をもたらす特殊な商品である労働力が売買されるための、資本家がたえず商品市場で労働力商品=搾取材料を見出すための前提条件です。
 商品交換、流通の場面は、各人が商品所有者として人格的に自由対等な立場にあり、各人が所有する物を自由に処分することができる場(自由・平等・所有・ベンサムが支配する天賦人権の楽園)ですが、労働力の売買でも同様に、資本家と労働者も、法律上形式上、人格的に自由で対等な商品所有者として関係を結ぶということ、労働者は自分の労働力を自由に処分することができるということ(労働者は労働力を時間決めで売る、一度で売り切ってしまえば自由人から奴隷になってしまう)、しかし、同時に、労働者は生産手段・生活諸条件から切り離されているために、自由にできるのは自分の労働力以外ないのですから、どうしても自分の労働力をたえず資本家に売らなければ生きていけないのであり、その結果工場内で資本の監督下に置かれ不払労働を強制されなければならないこと、流通場面での自由平等の形式は実質上の不自由と不平等を覆い隠す外観でしかないこと等々――第4章でみた通りです。
 別言すれば、2つの条件は、労働者は奴隷であってはならないが、同時に労働力以外に売るべき商品をもたない無産者でなければならないということです。労働者は、奴隷や農奴と区別されて、経済外的強制によって搾取されるのではなくて、2つの条件を前提に、形式的な自由平等の外観に蔽われ商品交換により媒介された経済的強制によって搾取されるということです。したがって、「二重の意味で自由な労働者」という中に、すでに「本源的」に労働者の資本への従属ということが含まれているのではないでしょうか。
 マニュファクチュア的分業は労働者を部分人間化し、不具化、奇形化させます。したがって、マニュファクチュア分業の資本家的本性を述べた第5節では、第4章の「本源的」ともいえる基本条件に(流通の場面での「人格的な自由」による自由な“取り引き”という形式は貫かれ、一切の生活諸手段からも自由だという条件に加えて)、個々の労働力の変質という条件が加わることによって、労働者の資本への従属が実質化し深化していくということが明らかにされています。「労働者は本源的には、商品を生産するための物質的諸手段をもたないから自分の労働力を売るのであるが、いまや、彼の個別的労働力そのものは、それが資本に売られない限りは役に立たない」(第5節)がゆえに、相変わらず、労働力という商品の形式的な処分権は労働者の手の中にありながらも、マニュファクチュア分業の結果、それは一面的な部分機能しか果たせない労働力に変質しているので、労働者の手の中にありながらも、すでに「資本のもの」という「烙印」がおされているのです。
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横浜で月2回『資本論』学習会を開いています。

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