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第13章「機械設備と大工業」第9節「工場立法(保健および教育条項)」の学習会

  12月20日と1月10日に、第13章「機械設備と大工業」第9節「工場立法(保健および教育条項)。イギリスにおけるそれの一般化」を検討しました。
 工場法は、社会の生産過程の自然発生的な状態に対して社会が加えた最初の意識的、計画的な反作用であり、大工業の必然的産物であると、マルクスはその歴史的意義を指摘しています。この節では、保健条項、教育条項を中心に考察されています。

★工場法の教育条項の意義
教育条項に関しては児童に初等教育を受けさせることが労働の強制条件となりました。マルクスは、教育条項は貧弱なものとはいえ、労働と教育とを結合させる可能性を示したと評価しています。

 工場法の教育条項について簡単に見てみますと、工場監督官制度が創設されわずかでも実効性をもつようになったのが1833年の工場法からです。1833年法では、9歳から13歳未満の児童の1日の労働時間が9時間に制限されるとともに、1日に2時間(週に12時間)の授業を受けた証明書がなければ雇用できないことになりました。
 その後の1844年工場法では、13歳未満の児童の労働時間が6時間半(特別の場合は7時間)に短縮され、学校への出席が最低3時間に延長されました。さらに、6時間ないし7時間の労働時間は、教育に半日を充当できるように、午前か午後のいずれかにとると定められました。また、1週間のうち3日間を隔日に雇用される児童は10時間労働とされ、雇用される前日は最低5時間の学校への出席が義務づけられました。労働と学校出席を交互に行なういわゆる「半労半学の制度」が採られました。

 また、マルクスは工場制度から未来の教育の萌芽が芽生えてきたと評価しています。それは、社会的生産を増大させるための一方法としてだけではなく、全面的に発達した人間を生み出すための唯一の方法として、一定の年齢以上のすべての児童のために生産的労働を知育および体育と結合するような教育です。
 
 マルクスは「全面的に発達した人間」をつくりだす必然性と可能性を、大工業の本性とその資本主義的形態との矛盾から解き明かしています。この点は議論ポイントの一つでした。
 マニュファクチュア的分業が特殊な部分労働へ労働者を生涯にわたってしばりつけ労働力を不具化し、労働者を一面化し奇形化するということは第12章でみた通りですが、大工業は従来のマニュファクチュア的分業を技術的に駆逐していきます。大工業は、①生産の技術的基礎をたえず変革するとともに、労働者の機能や労働過程の社会的結合をもたえず変革する、また②社会的分業をもたえず変革して、大量の資本と労働者の大群とをひとつの生産部門から他の生産部門へとたえまなく投げ出したり投げ入れたりする――このように大工業は、労働の転換、機能の流動、労働者の全面的可動性を必然的なものにします。
 ところが他方で、大工業はその資本主義的な形態においては、旧来の分業が搾取の手段として利用される、形をかえて再生産される――工場では労働者を部分機械の付属物に変えるなどより奇怪な形で再生産されます。こうした矛盾ゆえに、不況ともなれば、労働者は失業によって生産手段から切り離されると同時に生活手段も奪われてしまい、彼の部分的・細目的な機能とともに労働者そのものを余計なものとしてしまうなど、労働者の生活状態は安定性と確実性を失い、労働者は不断の犠牲と労働力の無際限な乱費とを余儀なくされます。しかし、労働の転換、労働者のできるかぎりの多面性を求める大工業の本性が、その資本主義形態を通してではあるのですが、ひとつの「圧倒的な自然法則」として貫かれる――労働者の配転・失業などの破壊的作用によって労働過程における社会的結合の流動化をもたらすことなどをつうじて、労働者の労働の転換が必要であること、労働者が多面的な労働可能性をもつこと、一つの細目作業の専門的担い手でしかない「部分個人」の代わりに「全体的に発達した個人」をもってくることを「死活問題」とするようになるのです。
 大工業はこうして「変革の酵素」を発展させるのですが、それは資本主義的生産形態と「真正面から矛盾」します。しかし、資本主義的な生産形態に内在するこうした諸矛盾の発展が、この生産形態の解体と新たな生産形態の形成とを準備していくことにつながると述べられています。

 大工業の出現が労働の教育にとってもつ意義は、生産技術をそれまでの「こつ」や「秘伝」のようなものによって継承されるものから「自然科学の意識的な適用」に変えたことにあります。このような大工業の基礎の上に「総合技術および農学の学校」や労働者の子どもが学ぶ「職業学校」が自然発生的に、資本の要請としても生まれてきました。労働者のための“学校”は貧弱なものであったようですが、「部分個人」を再生産するような社会形態では、教育もそれに相応して歪められ限界をもつものにしかならないのでしょう。しかし、労働者階級の政治権力獲得後には、理論的実践的な技術学的教育は労働者学校において正当に位置付けられるだろうと、マルクスは指摘しています。

★生産的労働と教育との結合の意義
 質問のありました註309のジョン・ベラ―ズの(オーエンにも影響を与えた)思想は、なぜ、生産労働と教育が結合されねばならないのかを教えています。ベラーズの「…労働は生命のランプに油を注ぎ、思考はランプに点火する。…」という言葉を(前後の文章も含めて)マルクスは「みごとに述べている」と言っていますが、生産労働と教育との結合の意義を語っています。
 ベラーズは、分業の結果、「頭の労働と手の労働」とが分離・対立するような社会では、それに照応し教育も歪められ一面化することを示し、そのことを彼は「社会の両極に肥大症と委縮症を生み出す」ような教育だといって批判します。一方の極には、生産労働から遊離した「教育」、実生活から遊離した知識の「過剰」な注入によって「頭でっかち」の子どもたちが生み出されるのに対し(肉体労働を軽蔑するようになる人間を生む上・中流階級の学校を批判しているのです)、他方の極には、機械の付属物として肉体労働に追いやられ、科学や真の知識から切り離され精神を「愚鈍」にされている子どもたちがいる(「婦人労働や児童労働の資本主義的搾取から生じる精神的委縮」第13章第3節)という矛盾した状態を、ベラーズは「肥大症と委縮症」という言葉で言い表したのでしょう。マルクスは、そうした一面的な「こんにちの教育と分業との必然的廃止を、すでに17世紀末に…把握」していたとベラ―ズを高く評価するのです。
 「子どもじみた愚かな仕事は、子どもの精神を愚かなままにしておく」というベラーズの言葉は、ルソーの労働教育思想を歪曲したバセドー派の「博愛学校」に向けられたものです。その意味をクループスカヤは「博愛学校でも、肉体労働をやっていたが、それはただ遊びとして、気ばらしとして、体力を発達させる手段としてであって、本当の生産労働は下等の仕事だと考えられた」(『国民教育と民主主義』)と語っています。

 なぜ、労働と教育が結合されねばならないか、その根拠と意義を、『資本論』執筆と同時期にマルクスが起草し、綱領的要求として掲げられた「第一インターナショナルの指示」から確認しておきます。
「男女の児童と年少者を社会的生産の大事業に協力させる近代工業の傾向は、資本のもとでは歪められているいまわしい形をとっているとはいえ、進歩的で、健全で、正当な傾向であると、われわれは考える。合理的な社会状態のもとでは、9歳以上のすべての児童は、生産的労働者とならなければならない。これは、健康な成人はなんびとも自然の一般的法則、すなわち、食うためには労働しなければならず、しかも頭脳によってだけでなく、手によっても労働しなければならない、という法則から除外されてはならないのと同様である。」(『個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示』)
 さらにもう一つ、児童労働の「全般的禁止」は「反動的」であるとさえ述べている『ゴータ綱領批判』より。「児童労働の全般的禁止は大工業の存在と両立できない。だから、それは、空疎な、かなわぬ望みである。/それを実施することは――よしんばできるとしても――反動的である。なぜなら、種々な年齢の段階に応じて労働時間を厳格に規制し、またその他の児童保護の予防手段を実行しさえすれば、少年時代から生産的労働と教育とを結合することは、今日の社会を変革する最も有力な手段の一つであるからである。」
 
★大工業と家族制度
 大工業の発展は、既に見たように、家内工業を没落させ、婦人および子どもが生産にひきいられるようになります。父親はもはや唯一の収入の稼ぎ手ではなくなり、「父権」の経済的基礎が掘り崩されます。婦人が社会的生産にひきいられるようになると、家事労働や子どもの養育など家庭生活や家族形態にも大きな変化を与えます。そして工場法の家内工業への適用が始まると、工場法は古くからの家族制度を根本から解体する契機になります。大工業は新たなより高度な家族制度を生み出す経済的基盤をつくることになるのです。家族の形態はそれぞれの歴史的条件に適合して変化していくのであって、今までの家族の形態を絶対化するのは「ばかげている」とマルクスは言います。
 さらに、男女両性および様々な年齢段階の人々が社会的生産に携わるということは、資本主義的な生産形態のもとでこそしばしば退廃や奴隷状態という害毒の源泉になっているけれども、「適当な諸関係」、すなわち、生産過程が労働者のためのものになっているような諸関係のもとでは、人間的発展の源泉に一変するにちがいないと、マルクスは指摘しています。女性が「家事の領域」への束縛から解放され、社会的な生産に参加することの意義も確認できます。

★工場法の一般化とその意義
 工場法の適用範囲は最初は繊維部門に限られていたが、しだいにあらゆる労働部面に、小経営や家内労働にも拡げられ、一般化されることになります。一般化に導く事情の第1は、資本家は、工場立法が特定の生産部門にのみ適用されると、それ以外の生産部門や家内工場の場で、その損失を取り戻そうとして一層激しい搾取となって表れるということであり、第2には、資本家が競争条件の平等、すなわち労働者を平等に搾取する権利を主張するという事情です。工場法が一般化して、あらゆる産業を捉えるようになると、資本の支配をなお部分的に覆い隠していた古風な形態や過渡形態破壊し、それに代えて資本の直接のむきだしの支配をもってきます。こうして資本の支配に対する労働者の闘争をも一般化していくことになります。
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横浜で月2回『資本論』学習会を開いています。

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