『共産党宣言』学習会~第2章その2
12月14日、第2章「プロレタリアと共産主義者」の続きを学習しました。
前回、共産主義者は私的所有の廃止を目指すというところで終わりましたが、「私的所有の廃止」という宣言は、ブルジョアの恐怖や非難を引き起こします。続くパラグラフでは、「宣言」がブルジョアたちの様々な非難中傷に辛辣に反論する形をとっていることや、今もマルクス主義への非難が繰り返されている事柄でもあり、議論は盛り上がりました。
ブルジョアたちは、自分で働いて得た財産を共産主義者が廃止すると非難します。もちろん『資本論』でも掘り下げられるように、ブルジョア的所有が自己労働に基づくのとは反対に他人の労働の搾取によって成り立つのですから、「自分で働いて得た」云々が欺瞞以外ではないのですが、「宣言」はまた、自己労働による小経営は資本の社会の中で日々廃止されてきたし、また労働者がつくりだす富は労働者の手に入らず、労働者は私有財産をもたないのだから廃止するまでもない、廃止されるのは他人の労働を搾取する所有、ブルジョア的私有財産、賃労働の廃絶であると鋭く反撃します。
さらに、質問が出たことですが、資本が「社会的な力」であるゆえに社会の共同所有に変えられるべきものということの意味、あるいは「ブルジョア社会では過去が現在を支配し、共産主義社会では現在が過去を支配する」という文章に注目しました。これも今後の『資本論』学習会で深められることですが、労働過程としてみれば労働者が労働条件を使うのですが、資本の支配する下では、同時に価値増殖過程でもあるのですから、蓄積された過去の労働が生きた現在の労働の支配者となるという転倒した関係が生じます。逆に共産主義社会では、資本としての性格が取り払われた蓄積された労働が労働者の生活を向上させていくことにつながります。
しかし、ブルジョアは私的所有の廃止は、人格や自由を廃止するものだ、怠惰を奨励するものだ、あるいは家族をも廃止しようとしている等々と叫びます。だが、ブルジョア社会では、資本が自主性と人格をもち、資本に従属した労働者には自由も人格もないのであり、ブルジョア的自由とは売買の自由、私有財産の自由でしかなく、こうした資本の支配する生産関係の廃止こそ、人間が真に人格をもち自由に発展できる道が開かれることになるというべきでしょう。
さて、労働者は怠惰どころか、日々勤勉に働いても働いても生きていくのがやっとであり、ブルジョアこそ他人の労働に寄生する、働かずに怠惰で儲けているというのが、現実ではないでしょうか。しかも、資本の体制は、労働者が望みもしない失業という「強制的怠惰」(『資本論』)も押しつけるような矛盾した社会であるということも付け加えておくべきでしょう。
さらに議論は、文化や教養などの上部構造、家族のあり方、さらには教育の問題にまで及びました。次回、1月18日は第2章の続きで「婦人問題」(岩波文庫p64.l9)からです。
ブルジョアたちは、自分で働いて得た財産を共産主義者が廃止すると非難します。もちろん『資本論』でも掘り下げられるように、ブルジョア的所有が自己労働に基づくのとは反対に他人の労働の搾取によって成り立つのですから、「自分で働いて得た」云々が欺瞞以外ではないのですが、「宣言」はまた、自己労働による小経営は資本の社会の中で日々廃止されてきたし、また労働者がつくりだす富は労働者の手に入らず、労働者は私有財産をもたないのだから廃止するまでもない、廃止されるのは他人の労働を搾取する所有、ブルジョア的私有財産、賃労働の廃絶であると鋭く反撃します。
さらに、質問が出たことですが、資本が「社会的な力」であるゆえに社会の共同所有に変えられるべきものということの意味、あるいは「ブルジョア社会では過去が現在を支配し、共産主義社会では現在が過去を支配する」という文章に注目しました。これも今後の『資本論』学習会で深められることですが、労働過程としてみれば労働者が労働条件を使うのですが、資本の支配する下では、同時に価値増殖過程でもあるのですから、蓄積された過去の労働が生きた現在の労働の支配者となるという転倒した関係が生じます。逆に共産主義社会では、資本としての性格が取り払われた蓄積された労働が労働者の生活を向上させていくことにつながります。
しかし、ブルジョアは私的所有の廃止は、人格や自由を廃止するものだ、怠惰を奨励するものだ、あるいは家族をも廃止しようとしている等々と叫びます。だが、ブルジョア社会では、資本が自主性と人格をもち、資本に従属した労働者には自由も人格もないのであり、ブルジョア的自由とは売買の自由、私有財産の自由でしかなく、こうした資本の支配する生産関係の廃止こそ、人間が真に人格をもち自由に発展できる道が開かれることになるというべきでしょう。
さて、労働者は怠惰どころか、日々勤勉に働いても働いても生きていくのがやっとであり、ブルジョアこそ他人の労働に寄生する、働かずに怠惰で儲けているというのが、現実ではないでしょうか。しかも、資本の体制は、労働者が望みもしない失業という「強制的怠惰」(『資本論』)も押しつけるような矛盾した社会であるということも付け加えておくべきでしょう。
さらに議論は、文化や教養などの上部構造、家族のあり方、さらには教育の問題にまで及びました。次回、1月18日は第2章の続きで「婦人問題」(岩波文庫p64.l9)からです。